2010年9月28日火曜日

ソフトバンク優勝


あっという間に優勝をかっさらったという感じです。

西武ライオンズにしてみれば、何が起こったのか分からない内に

やられたという感じでしょう。

競艇でいう「まくり」というか、土壇場の集中力ですか

これは前回のBLOGで書いた孫社長のDNAが作用していると

言えるのではないかと思う。


そしてもう一つ忘れてはならないのは、王前監督の作り上げた「ホークス」

というチームの伝統というか魂ではないだろうか。

「勝つ」ということに徹底的にこだわり続ける姿勢。

弱かったダイエーホークスを、常勝チームに育て上げ

勝つことで選手に自信を与え続け、勝つことが伝統となるまで

継続してきた功績は、福岡にとってかけがえのない宝です。


このままクライマックスシリーズでも勝ち進み

優勝(日本一)してほしい。

2010年9月22日水曜日

孫正義


今日本で最も好きな事業家です。

彼のことを客観的に書いた本を以前読んで、彼のエネルギーにかなり驚いた。

そして最も優れた点はやはりここ一番の集中力に尽きるのではないかと思う。

モチロンその他どこをとっても事業家としての資質や考え方などは

超一流であることは間違いない。

店頭公開からアメリカのコムテックス、ジフデービスの展示会部門から

更に出版部門の買収はすさまじい勢いでした。

そしてそのジフデービスからの情報で、ソフトバンクを一気に飛躍させる要因となる

ヤフーへの資本参加です。

その決断と出資比率への執念が今のソフトバンクを支えてきたのは間違いない。

そして、有名なボーダフォンジャパンの買収で、更に飛躍を続けている。


インターネットという時代の変革を見事にとらえ、すべての経営資源を投入した。

その結果素晴らしいユーザー的発想より価格破壊をおこし、独占的なNTTの牙城に

風穴を開けた。

そしてその戦いは今も続いている、国家に守られているNTTらを敵に回し戦う姿は

凛々しいともいえる。

2010年9月8日水曜日

【残っていた留守番メッセージ】

てっぺん大島啓介氏の夢エールよりの転載です。

いつも仕事中不覚にも涙する話しが多いのです。




私が結婚を母に報告した時、ありったけの祝福の言葉を言い終わった母は、私の手を握りまっすぐ目をみつめてこう言った。


「私にとって、濡は本当の娘だからね」


ドキリとした。


母と私の血がつながっていないことは、父が再婚してからの18年間、互いに触れていなかった。


再婚当時幼かった私にとって「母」の記憶は「今の母」だけで、『義理』という意識は私にはなかった。


けれど、やはり戸籍上私は「養子」で、母にとって私は父と前妻の子なので、母が私のことをどう考えているのか、わからなかった。


気になってはいてもそのことを口に出した途端、互いがそれを意識してちぐはぐな関係になってしまいそうで、聞き出す勇気は私にはなかった。


だから、母の突然でまっすぐな言葉に私は驚き、すぐに何かをいう事ができなかったのだ。


母は私の返事を待たずに「今日の晩御飯、張り切らなくちゃだめね」と言い台所に向かった。


私はその後姿を見て、自分がタイミングを逃したことに気がついた。


そして、

「私もだよ、お母さん」

すぐそう言えば良かったと後悔した。


結婚式当日、母はいつも通りの母だった。

対する私は、言いそびれた言葉をいつ言うべきかを考えていて、少しよそよそしかった。


式は順調に進み、ボロボロ泣いている父の横にいる、母のスピーチとなった。


母は何かを準備していたらしく、

司会者の人にマイクを通さず何かを喋り、マイクを通して「お願いします」と言った。


すると母は喋っていないのに、会場のスピーカーから誰かの声が聞こえた。


「もしもし、お母さん。看護婦さんがテレホンカードでしてくれたの。

お母さんに会いたい。

お母さんどこ?澪を迎えに来て。澪ね、今日お母さんが来ると思って折り紙をね…」


そこで声はピーっという音に遮られた。


「以上の録音を消去する場合は9を…」


と式場に響く中、私の頭の中に昔の記憶が流水のごとくなだれ込んできた。


車にはねられ、軽く頭を縫った小学校2年生の私。

病院に数週間入院することになり、母に会えなくて、夜も怖くて泣いていた私。


看護婦さんに駄々をこねて、病院内の公衆電話から自宅に電話してもらった私。


この電話の後、面会時間ギリギリ頃に母が息を切らして会いに来てくれた。


シーンと静まりかえる式場で、母は私が結婚報告したのを聞いた時と同じ表情で、まっすぐ前を見つめながら話し始めた。


「私が夫と結婚を決めたとき、

互いの両親から大反対されました。

すでに夫には2歳の娘がいたからです。

それでも私たちは結婚をしました。

娘が7歳になり、私はこのままこの子の母としてやっていける、そう確信し自信をつけた時、油断が生まれてしまいました。

私の不注意で娘は事故にあい、入院することになってしまったのです。」


あの事故は、母と一緒にいるときに私が勝手に道路に飛び出しただけで、決して母のせいではなかった。


「私は自分を責めました。

そしてこんな母親失格の私が、娘のそぼにいてはいけないと思うようになり、娘の病院に段々足を運ばなくなっていったのです。

今思えば、逆の行動をとるべきですよね。」


そこで母は少し笑い、目を下におとして続けた。


「そんなとき、パートから帰った私を待っていたのは、娘からのこの留守番電話のメッセージでした。

私は

『もしもし、お母さん』

このフレーズを何度もリピートして聞きました。

その言葉は、母親として側にいても良い、

娘がそう言ってくれているような気がしたのです。」


初めて見る母の泣き顔は、ぼやけてはっきりと見えなかった。


「ありがとう、濡」


隣にいる父は、少しぽかんとしながらも、泣きながら母を見ていた。

きっと、母がそんなことを考えているなんて知らなかったのだろう。


私も知らなかった。


司会者が私にマイクを回した。


事故は母が悪いわけじゃないことなど、

言いたいことはたくさんあったけれど、

泣き声で苦しい私は、

言いそびれた一番大事な言葉だけを伝えた。


「私もだよ、お母さん。ありがとう」